HagiiZ最初のプロダクトへようこそ!
着想まで。
小中学生の頃は、勉強ができると「ガリ勉」というレッテルを貼られる一方、
運動神経の良い子たちがチヤホヤされがちです・でした(個人的思想・実体験あり)。
当然、運動できる人だってカッコイイ。
でも、勉強できたって・勉強好きだってカッコイイじゃないか。
今思えば、勉強できる人・好きな人に対してぶつけられる「ガリ勉」というレッテルは誉め言葉とさえ受け取れるけど、
小中学生が受け止めきれることでもない気がする(少なくとも僕は無理だった)。
僕の中学校では、実は高校受験を意識し始めるあたりから徐々に勉強の価値は高まっていった。
「良い高校・進学校・特待生」と言われる、明確なステージがやっと用意される。
義務教育を超えて、「学費」という現実に向き合い、自分の勉強ができるというスキルが
人生を左右しうるから、いつの間にか「ガリ勉」というワードは消えていったように思う。
そうはいっても、高校野球・ウインターカップ・天皇杯などなど、限られた人間しか存在できないところで(フロンティア)で戦う人って、みんなかっこいい。同級生が甲子園でHRを打った、箱根駅伝を走った、という話を聞いて、自分の熱狂をぶつけられる領域で活躍していると思うといい意味で鳥肌が立った。
僕が中学生くらいの頃から、「クイズ王」が話題になり始め、雑学・博識な人がカッコイイという認識になり始めた。伊沢さん、偉大である。
僕には駅伝とか野球とかサッカーは無理でも、豊かにしたり救ったりすることはできるんじゃないかと思った。
飛んで飛んでの話だけど、
結局のところみんな、勉強はできるし好きなのだと思う。
問題は、「何を勉強と定義するか」とか「どの時点でできているか」。
小中学校の時は、決められたタイミングで・決められた教科でどれくらいの学力があるのか、が測られる。
さらに付け加えて、理系っぽくいうと、「恣意的に決められた時間において、モデル化されたものをどこまで体系化できているかが測定される。
自分の興味に関係なく、文部科学省が定めた学習指導要領を満たすような枠組みで、その子の能力が外的に決定される。
医者になりたい!と思っても算数・数学が必要だから、旅行のガイドになりたい!と思っても地理・社会が必要だから、と抽象的に認識するしかない。どうやって使うかが分からないから、算数・数学、地理・社会という教科の枠組みでしか認識できない。興味・主体性に基づいた学習の枠組みにはなっていない。
いつ・どんな知識が・どんなシーンで活用されるか、なんてわからない。でもそれは、子供にとって学習する理由の1つにはなっても、決定的にはならない気がする。
で、多分みんな、自分の「なりたい」や「興味」のためなら、きっと勉強できると思う。そして、その制限時間は、学生という枠組みを超えた時点で、誰かが決めた時間までにできるかどうか、は関係ない。
そして、その内容のフックが必ずしも「学習指導要領における知識体系」とは限らない。ヨーロッパ史かもしれないしゾウリムシの生態かもしれない。
たまたまその時にできなかっただけで、長い目で見ればその好奇心・興味や主体性を失うほうが怖いしもったいない。
つまり、みんなガリ勉。世の中、いろんなガリ勉でできているのだ。
※1周回って、運動できる人、やっぱりカッコイイ。

